お見送り

コロナ禍の2020年、コロナ感染に関係なく、

心友を二人亡くしたのが10月だったので、10月が来ると毎年切ない気持ちになる。

一人は、1つ年上の趣味と好みが似ていて、このメールの時代に出会ってからほとんど文通をして、いつも温かな気づきをさずけてくれた女性。

もう一人は、10歳年上で、私が乱気流中の20代の頃に出会い、

年に1、2度会う程度で、会えばお酒を飲めない彼女と何時間も心の根を話し合う同志のような人。

二人の心友が突然、この世から立て続けにいなくなり、

さよならの言えない死が私の胸に小さく細い棘を刺した。

その棘が10月になるとぐぐぐと動き、ちくりと痛む。

そうか、まだ、あるんだな棘。

数日前まで文通していた1つ年上の彼女の自死。

いつもは笹が飾りをつけて丁寧に上を向いている七夕ような文字なのに、

最後の手紙の文字は行き先を迷い、散り散りになった震える蟻のようだった。

脳の癌で生きたくても生きれなかった10歳年上の彼女とホスピスケアの電話での

最後の会話は今も耳に残る。

「カオリンさん、私大丈夫よー。この世界は本当にびっくりするくらい、上手くできているんだから。全てが完全になってる感じ。私ね。今、本当に最高に幸せなの!こんな気持ちになるなんて、神様が用意してくれたみたい」

人間という生き物の終わる時について、かつてないほど感じたのが5年前の10月。

このことがあって、棘を感じる度に、頭では数年思っていた”自分ができることで人の心に温かさ、希望の灯をつけたい”が[キャンドルカップ]という形にたどり着いた。

いつか自分の人生も終わるけれど、それが高齢で終わるなどとは保証は無い。

もしかしたら明日に突然かも?と終い方も知らないのだから。

そう、そのうち!なんて思うこと自体、恐ろしく時間の無駄遣いではないか。

何もせずに生きることは私の幸せではない。

私の心からの幸せはお金では買えない。

人生に拍車をかけたのは間違いなく10月の心友である。

今秋のある日、読んだ本にこんなことが書いてあった。

「死んだ人は向こうの世界へ行き、暮らしている。いつまでも娑婆で死んだ人のことを嘆いていると、向こうへ行った人は暮らしにくい。私は娑婆で楽しく暮らしているわ。あなたも向こうで楽しく暮らしてねと思うことだ」と。

やっと私、5年間、刺さっていた小さい棘が抜けたようである。

もう、今年の10月は胸は痛くならなかった。

向こうで幸せにね。ありがとう。