米を炊く

先日、東京で20年ほど使っていたちょこっと炊きの炊飯器にお疲れ様と感謝して手放した。

まだ電気も通るしなんら問題はなかったのだけど、どうも炊いたご飯が美味しく感じなくなっていた。

こちらの加齢による味覚音痴があるかもしれないが、炊いた後の米が艶っとしていないのも

手放す要因のひとつであった。

そこで数年前に買って、年に2、3回しか出番のなかったご飯専用土鍋を使うことにした。

「始めちょろちょろなかぱっぱ、赤子泣いてもふたとるな」

昔、同居していた祖母がそういいながら文化鍋でご飯を炊いていた。

小学生の私にはおまじないに聞こえて祖母に尋ねた。

「ちょろちょろ、なかぱっぱって?」

すると祖母は「火加減のことだよ」。

わかるようでよくわからなかったが、炊くことは感覚なのだろうとぼんやり理解した。

毎日、祖母はそのおまじないを言っては鍋に耳を近づけ、蓋周りについた米汁の膜や、

時計を見ながらコンロの火を操作していた。

それを見て育ったせいで、私も米を炊くときはおまじないを言い、耳を鍋に近づけ音をきき、鼻で米の香りをくんくん嗅いで、時計を見るというのが儀式となった。

よし!と蒸して蓋を開けると、美味しそうな艶々のお米がそこにある。

思わずしゃもじで救ってそのまま食べたくなる衝動に駆られるが、

民藝の陶器の茶碗によそい、細目の箸で食べるのがまた更に美味しくさせる。

それにしても昔の人はうまいおまじないを考えるものだ。

「始めちょろちょろ、なかぱっぱ」

こうして人の五感を使い、感覚も研ぎ澄ましていたのだろう。

米は日本人の身体のみならず心魂の栄養にもなっている。