北海道では、重く厚い焦茶色のマントを被って寝ていた山が、
春一番の風にマントを吹き飛ばされると、眠たそうに枝葉を伸ばす。
ほんのり暖かな陽射しを浴びる度に、山は淡い鶯色の羽衣を纏い、軽やかに少し踊ってみせる。
山に住む動物たちは、その踊りで目を覚まし、待ってましたと穴蔵を出る。
寒く長い灰色の冬が終わるのをモグラもキツネも鹿や熊たちも、みんなじっとその時をまっているのだ。
お腹を満たそうと動物達は一斉に動き回るものだから山はくすぐったくて仕方ない。
わははと笑っているうちに山の鶯の色もすっかり深緑に変わっている。
その頃、私たちも山の足元をくすぐるように、ちょこちょこと畑を耕かしはじめる。
今年は何の野菜をつくろうかと思い巡らしながら畝の幅や深さを考える。
それは大きな黒板に小さなチョークで思いついたことを描く時のドキドキに似ている。
さて、この時期は巷の種苗店では野菜の種や苗を求める人の列を見かけるようになる。
それぞれが畑の収穫を愉しみに、自分の夢の種をも一緒に抱えて並んでいる。
寒さにじっと耐えて春を心待ちにしているのは動物や植物だけではない。
私もその列に加わりながら畑の夢を見てみよう。
ジャガイモは去年より控えめの数にして、
サツマイモは少し増やしてみよう、
トマトとケールは今年は品種を変えてみるのもよいかも。
雪の下で半年寝かせた土を鍬で掘り起こしてみる。
鍬がサクッと音を立てると、頭の上で鶯が鳴く。
「ホーホケキョ(今年も来たね。)」
「あぁ、今年も畑びらきさ」と返す。
カラスも加わり「カーカーカー(また葉っぱをエゾ鹿に食べられちゃうよ)」と冷やかされ、
「今年は背より高い鉄の網の柵を回すんだ」と返す。
それを機に一気に草花や木々の会話も耳には入ってくる。
日頃の喧騒では聞こえない声だ。
雑草という草はないのに、花が咲かないからといっぱい生える草を根から抜く時、
自分もこんなにされたら嫌だろうなとその草の気分になる。
納戸に潜むカメムシの大量を見かければ、ゴルフの如くに箒で飛ばすと、
自分の殺生はその数の分もあると思うとやや気が滅入る。
山での畑作業は生き物全てを通してこの地で生きている私に問いかける、人として生まれたことの意味を。
育ちの悪い野菜は私に問い詰める、もっと上手く作れなかったのかと。
そんなやりとりを毎年繰り返し、山の畑に私は少しずつ育ててもらっている。
しかし、種を植えなくても明らかなことは、毎年の種や苗は若いが、こちらは年々熟成しているということだ。
シワの数も、シミの数も、曲がる腰も。
ワインの葡萄木のように古木なほど価値があればよいが。
いつか来る、私の収穫をする日を愉しみにすることにしよう。