この世の最後の食事

NHKで音楽家故坂本龍一氏の癌の余命宣告から亡くなるまでのドキュメンタリー番組を観た。

坂本龍一氏のことはほとんど知らなかったが、あることがきっかけで、彼のことをもっと知りたいと思った。

『外苑前の銀杏並木を切るな!』という抗議文を都知事に送ったという。

たまたまテレビで彼がその時「私の命はもうあまりない、この銀杏も切らなければまだまだ生きるだろう。この美しい並木道はこの先も楽しませてくれるはずだ。どんどん進む近代化で壊してよいのか。私はこれ以上、反対運動を起こす体力も命もないが、誰かがこの想いを受け継いでくれたらと思っている」と話していた。

彼の抑揚のないポソポソと話す言葉と、冬の湖に似た澄んだ瞳、サラリとレースが垂れるような白髪と細いペンのような首筋は、この世にいる俗世間の人とは思えず、もう体の半分があちらにいってしまって透けている感じがした。

ドキュメンタリーの中で、彼は「ぁぁ松前漬けが食べたいな」と言った。

びっくりした。松前漬け、それならうちの冷凍庫にたくさんある。

そんなものでよいのか!

そういえば膵臓癌で68歳で亡くなった叔父が、「あぁ桃が食べたいな」亡くなる前に病室にいた母に言った。

母は「可哀想な最後だった」と話してくれた。

人は亡くなる前、食べたいものが浮かぶのだろうか。

私は何が食べたくなるだろう。

時々、主人とあと24時間で亡くなるとしたら何が食べたいかと訊きあっている。

主人は、朝は魚と生卵、白いご飯の美味しい和定食、昼がすき焼きで、夜はお寿司。

私の朝は、海苔で包んだ塩ウニのおむすびとジャガイモと玉ねぎの味噌汁、昼は牡蠣とエビフライとシャンパン、夜は梅屋のシュークリームとアールグレイティーか、モロゾフのプリンとコーヒー。

それでも病室のベッドで『もう口にできるのがこれで最後』という時は何を食べたいだろう。

最後の一口、それは想い出も伴っている食べものを選ぶのではないだろうか。

きっと坂本龍一氏も松前漬けに想い出があったのだ。

食いしん坊の私は食べものの想い出は数多いが、それでもやはり主人との想い出の食べもの、赤ちょうちんの焼き鳥だろうか。

これではあと一杯となり、とても冥土へ真っ直ぐいけなさそうである。

まだまだ心の修練不足。

私は透き通る人には程遠い。

坂本氏のあの空気感は、煩悩から縁を切った人だけが纏う羽衣のような透明さだ。

その彼が身近に食べれる『松前漬け』といったのには、その松前漬けには大切にしている想い出が共にあるのだろう。

人は最後の晩餐は劇的にくるものではなく、当たり前と思っていたこの一日の中にくるものだと思させた。