水への思い

今から25年ほど前、父が念願の畑を持つことを叶えた。

農作物をつくるなど素人である。

庭の土いじりさえしない父がこの先どうなるのだろうと他人事に見ていた。

父は昔から勉学熱心で、今回の畑の作物を育てるために大学ノートにびっしりと肥料や植え方、

植える時期のうんぬんかんぬんを書いていた。

その字はうにょうにょと流れ文字で、ノートにミミズがたくさんいるようだ。

もう既に畑がここにあるわいと笑ってしまった。

数年経つごとに野菜という名にふさわしい作物を育てられるようになった父が

ある年の夏に、父が喉からからに畑から疲れて帰ってきた。

水を持っていったのに不思議に思って尋ねたところ

「今日は暑くて暑くて参ったが、そこで水を欲しそうにしている花や野菜と目が合うんだよ。

すると自分は家に帰れば水は飲めるが、畑の野菜たちはお天道様次第だからいつ水が飲めるかわからないだろう。
すると可哀想になってしまい一滴の水も惜しんであげてきた」という。

それを聞いて熱中症になるではないかと父の身体を心配しつつ、

何もそこまで自己犠牲にしなくてもと呆れてしまった。

それが、そう思ったわたしが、

数年前に畑を引き継ぎ、今年の夏、父の自己犠牲の心情を経験してしまった。

じっーと水を飲みたそうにしている草木や作物の視線を感じるのだ。

こりゃ確かに自分だけゴクゴクと水は飲めないな、

父が言ってた野菜と目が会う話は本当で、それはきっと、

今の私が野菜の気持ちを思えるほど大地に近くなったということだろう。