札幌の父の最後の畑仕事となった今年、収穫した馬鈴薯を持って帰りなさいと手渡され数個貰って帰京した。
しばらくゴロンと台所の籠にいれていたが、すっかり冷えた東京の今日、自宅での昼に馬鈴薯を茹でて食べることにした。
父は秋になるとよく畑からの新鮮な馬鈴薯を茹でて有塩バターで昼に頬張っていた。
わたしは子供心に不思議な昼の食事だとそれを奇妙な思いで見ていたのである。
馬鈴薯だけで昼が終わるという栄養の偏り、バターの味付けのみで健康に思えないのが理由だった。
無農薬で育った馬鈴薯の皮を素手でアチチと言いながら串を使って剥き終えて熱いうちにバターを乗せる、
熱でトロリと溶けたバターが馬鈴薯に浸透していくのを待って食べ始める。
奇妙と思っていた父の馬鈴薯だけの昼食を自分がするようになったことにわたしも歳をとったのか、血筋は争えないのか、三つ子の魂100までなのか、と
この心情に当てはまる言葉を頭で探しながらペロリと食べ終えた。