氷の音がする

ちょうどその頃は平成元年というヘンテコな名前がついた年で

私が会社勤めを始めた年でもあった。

親元離れていた大学生活を終え実家からの通勤になった私は

帰宅するとランニングシャツ姿の父が庭の石に腰掛けて麦茶ほどの濃いウイスキーを片手に

じっとしているのに出くわし驚かされた。

感じることもあったがとぼけて「夕涼み?」などと声を掛け玄関を入ると母が台所から声を飛ばしてきた。

「困っちゃう、あんな格好でずっと外で呑んでいるんだから」

「いいんじゃない、一人になりたいのかもよ」そう応えたことを覚えている。

酷く寡黙で神経質な父の姿は肩書きの重鎮と比例して酷くなった。

元々はしゃぎ、笑いあうような家族でなかったが、もう野生のエルザを一緒に見ることはないのかなと寂しく感じた。

昨夜遅く、友人の弁護士が夜中に「電話してもよいか?」とメッセージを寄こした。

珍しいなと思いながら受話器を取るとプーンとお酒の香りがしてきた。

呑んでるでしょう!とは言わず「かなりお疲れの様子だけど、大丈夫ですか?」と言うと

珍しく弱音を吐いてくる。

その電話の向こうでカランと氷を振る音がした。

瞼に庭に座る父の姿が浮かんだ。

「頑張りすぎだから少しはお仕事減らさないと!」と友人に言うと

舌を持つれながらいつもパパがいないよと今日も泣かれたと幼子の話をし始めた。

耳を傾けながら先生になりたかったと言っていた父がまた浮かんだ。

家計のためになりたかった先生を諦め、職業を選んだ父。

友人も今度生まれ変わったら弁護士などしたくないと言う。

またカランと聞こえた。

きっと麦茶ほど濃いお酒を呑んでいるのだろうと思いながら

平成元年も今もその音の意味はあまり変わらないのだなと思った。