もう随分前の話だが輸入ワインの販売の仕事をしたことがある。
それまでワインなど売ったことがないし、詳しいことを訊かれても愛飲家に毛の生えたような知識しかない。
務まるのかと思いつつ事務所に伺うと櫛で髪を後ろに撫でた小柄の男性が電話で何やら話しをしている。
「いやぁご無沙汰していますねぇ。ちょうど美味しいワインが届きましたのでね、ご紹介したいと思いまして。
もう喉カラカラなんじゃないかと思ってね」
誰と親しく話しているのだろうと内心驚いていると電話を切って彼がこちらに言い放った。
「買うって、このお客さん」
電話でワインを売れることにびっくりしたが、電話の主とは今日話すのが初めてだというから更に驚いた。
腰を抜かしそうになった私はこの仕事は無理だから断って帰ろうとすると彼が話し続けた。
「電話で売れるなんてありがたい話しだよね。どうせ電話で話すなら楽しい方がいいじゃない。
そして本当に美味しいワインが届くんだから」
その言葉が妙に心に残った。
私は半年後、この会社の全国1位のワインセールスマンになっていた。
東京の本社で社長に次期支店長にならないかと誘われたが
アルバイト程度のつもりだったので長くやる気は無く申し訳けなかった。
その時社長が櫛で髪を撫でた小柄な男性は社長の友人で、都内の外れで駄菓子屋を営んでいたのだが倒産して
手助けに会社へ誘ったと話してくれた。
男性の机上に奥様と子供の写真立てがあったことを思い出した。
家族を置いて布団一つで知らない土地で頑張っていたのだ。
「喉カラカラでしょう」
まさに男性が誰かに言って欲しかった言葉だったのかもしれない。
私はこれを機に会ったことのない人に電話をするのが怖く無くなった。