芸術工学の学びをしていた大学生の時、友人の家に遊びにいった。
お茶を出してきた友人のお母さんが
木工や硝子や絵本とあれこれ作る私に向けて
「あれもこれも器用にできるとかえって極めることはできないからね」と言った。
当時の私はあれもこれもと興味のあることをしていたが、
その反面どれを自分は本当にしたいことなのだろうと模索していた。
「器用にできると一つを極めれない」という言葉は社会人になっても
2回目の成人式を迎えても私の心の部屋に住んだままだった。
「変な住人に長いこと住ませてしまったな。他にもっと良い人が住めたかもしれないのに」と
大学生の時から住みはじめたその住人を快く思っていなかった。
ある日、その住人が語り始めた
住人「どうして?あれもこれもじゃいけないの?」
私「あれもこれもじゃ極めれないからです」
住人「なぜ極める必要があるの?」
私「極めるとその道のプロになり生業になるからです」
住人「一つだけのことをして、それで生計を立てて暮らしたいの?」
私「・・・・・」
住人「あれもこれもしたのはしたいと思ったからでしょ?そしてあれもこれも一応できたってことでしょ?」
私「うむ。 ・・・それで?」
住人「あなたは私を快く思っていなかったけれど長いこと住ませてくれた。
もし一部屋しかなければ私はこんなに長くは住んでいなかった。
あなたに部屋がたくさんあったから住めたんだよ。
その部屋の数ってあなたがいろいろしてきたからたくさん作れたんじゃないかな。
それがあなたが長いこと極めてやって来たことだと思う」。
長く探していた私の極めることを疎ましく思っていた住人に気づかせられた。