紫陽花の香り

もうかなり昔。

煎った珈琲豆の香りと焼きたての酵母パンに魅せられて

そのお店でアルバイトをしたことがある。

そこの店主は昔、巷では有名な喫茶店を営んでおり

美大卒の奥様と結婚したときは奥様が1日中ウエディングドレスを着て

喫茶店でサービスをしていたらしい。

そのアルバイト先のお店は全国を行脚した店主が興味をもった食材なども売っており当時は珍しいものばかりだったが

中でも手作りのプリンとバタークリームは群を抜く売れ筋商品だった。

私はその圧力鍋でつくるプリンを一人で作れるようになるまでやや時間がかかった。

そんな私のあたふたした姿を後ろの豆煎り部屋の窓から見ていたのだろう。

ある日、店主が話しかけ来た。

「あのー、なんかですね。景色に入って来るんですよ」

???

「いえね。最近ちらちらと」

???

私には意味が分からず「すみません、何かしてしまいましたか?」と怖々尋ねた。

するとそれを察したのか店主は言った。

「いえね。よかったら、ほんの少しの時間で構いませんので今度、珈琲を飲みに行くの

付合っていただけませんか? いや、嫌でしたら断って下さいね」。

数日間考えて、珈琲を飲みに行くのを承諾すると店主は嬉しそうに珈琲を飲みに

連れて行ってくれた。

「今日はすみません、でもありがとうございました」

そういって店主は紫陽花の鉢を差し出した。

それは店先で毎朝、柄杓(ひしゃく)で水をあげている紫陽花と同じものだった。

大きな鉢の紫陽花。

「景色に入って来るんですよ」といった店主はどこかその紫陽花に似ていた。