おにぎり

職場の銀座のギャラリーの扉を開け、久しぶりの陽射しをまだ冷たい空気と一緒にこちらへ流し入れると、一人の帽子をかぶったご年配の女性も流れるように入って来た。

12時少し前。

女性は近くのギャラリーに来たのだが12時オープンで開いていなかったと屈託なく笑顔で言った。

話しの流れで彼女は80歳になる一人身らしい。

かぶっていた帽子を脱ぎ「ね、わたしはこんなんですのよ」と乱れた短めの髪の毛を少し手で整えた。

髪は豊かにあり白いものは混じっているが黒々している。

目を見開いている私に彼女はすかざす言った「歯もぜーんぶ自分のものなのよ。1日に1回は丁寧に一本ずつ磨くの。髪の毛も指で頭皮をマッサージして大切にしているのよ」。

「素晴らしいですね」と声高で応えると

「60歳からはじめたの。ほらね、元気でいないと私達のような年代は病院の管につながれてしまうでしょう?まして一人身ですから死ぬときも迷惑かけないで逝きたいのよ」

「本当にその通りですね。私もよく父にそうたしなめられます」と告げると

多摩川に八十八カ所というお遍路参りがあり、あと20カ所行けば達成だと言う。

続けてその八十八ヶ所は約260年前にある日本人男性が四国まで行けない母親のために作ったのが始まりと話しを広げてくれた。

感心している私に彼女は桜柄の風呂敷包みを開け木製のワッパ弁当から手で握っていないのよと言いながら桜型のおにぎりを差し出した。

塩漬けの桜が白米の真ん中に押し花のように置かれラップでくるまれている。

弁当箱に8個ほどあろうか、仲良く桜型のおにぎりは肩を寄せ合っている。

こんな綺麗なおにぎりは観たことがなかった。

そして知らない人からおにぎりをいただくのは初めてのことだと思った。

「知らない人?そうなのかな、もう10分前から話しており、いい人だと思ったからおにぎりを戴いたのでは?」自問自答していると12時の鐘がなった。

彼女は満面な笑顔で弁当の蓋をしめ風呂敷を包み直すとこう言った。

「人の出逢って本当に楽しいわよね。私、知らない方とお話するのとても好きなの。触れ合えば

もう知らない人では無くなるもの」

去り行く彼女の後ろ姿を見送りながら桜型のおにぎりの残り7個の行方を想像してみた。