汚れちまった。

国語の時間に初めて耳にして、

その言葉の意味不明さと語呂の心地よさが胸の中に焼き付いた。

夕暮れの陽を背に浴びながら小石を蹴りたくなるようなとき、浮かぶのは中原中也の詩の一節。

「汚れちまった悲しみに なすところもなく日は暮れる」

はてさて、汚れちまった心はたくさん持っているが、汚れる悲しみとは何ぞや。

悲しみを汚したくないということは、その悲しみは美しい思い出が伴い、

その思い出が人を成すことに向かわせる、そういうことなのかもしれない。

汚してしまったため、成すことが無くなってしまったことを嘆いているのかも。

何より汚してしまったのは他ならぬ本人自身なのだから。

今のご時世どうだろう。

美しい思い出を成すことの原動力にしている人はいるのだろうか。

汚してしまったと自分を責めるような人はいるのだろうか。