
もう40年以上になる。
来年から小学生になるという冬、
母に連れられ家具屋に学習机を買いにいった。
店内に並ぶ机は大半が当時流行っていたスチール製で、電気も、収納もそれは面白いくらい充実しており椅子も付いているメーカー品だった。
5歳のわたしは陳列されてこちらを見るスチール机を横目に通路を突き進み、選んだのは1台だけあった木製のライティングビューローだった。
お店の店員が私を説得する
「この机には電気も、引き出しも余り無いし、何より高さ調整が出来ないから使いにくいわよ」
わたしは木製机を指し続けている
「おまけに椅子が付いていないから別に買うことになるのよ」
わたしは聞いていませんとばかり、机の手前の板をパカパカ開いては中から香って来る木の香りに魅せられていた。母が訊いて来た
「本当にこれがいいの?椅子もないし、電気もないし」
わたしの頑固は多分この頃から既に芽を出していたのだろう
「これがいい。これでないならいらない」
スチール製の机と同じくらいの値段だ。でも椅子を他に買うとその分高くなる。
わたしは椅子は家にあるのを使うから買わなくていいと母に訴えた。
確かに子供にはライティングビューローは書くスペースも狭く使いやすいものでは無かった。
なかなか高さが合う椅子もなく、何枚もクッションを敷いてぐらぐらと腰かけていた。
机とわたしは共に育った。
パカパカと机の手前の板を開いては香りを嗅いだ。
その香りはわたしを木に関わる大学へも導いた。
今もその机はある。
どこも壊れておらず開けばあの香りだってする。
家族はもう処分したらと言う。
しかしわたしはこの机に最後まだ添ってもらおうと思っている。
できれば仏壇にでもしていただけたら本望である。