できるかな、のはじまり

自分が人と同じではなく、人も自分とは違うということを知り始めたのは7、8歳のころ。

何故同じ生きているのに、生まれる環境や興味のあること、大切なこと、思うことが違うのかと

理解したくなり、自分は何なのかとずっと考えてばかりいました。

もんもんと長いトンネルにいる様な日々が始まりました。

手本を習うのが苦手な私は自分でいちから考え、することを好みました。

当時テレビでのっぽさんというキャラクターがいろいろなアイディアで楽しいものをたくさん

作り出していました。

その番組が好きで当時は一番心落ち着く時間でした。

小学6年生のころ、卒業迄の1年間何でもやってみようと思い立ち、ウサギ飼育当番、新入生世話係、運動会の鼓笛隊の指揮者、特殊学級の世話、様々なことに立候補してやりました。

積極的な性格ではなかった私自身が驚く決断と行動でした。

中学時代は新体操部副部長、弁論大会、合唱コンクールの指揮者など経験するのですが

長いトンネルからはまだ出れずにおり、むしろ世の中が苦痛に感じるようになっていました。

聖書を勉強する私立の中高等学校でしたので、高校の先輩が美しく眩しく感じました。

「もう、既に自分とは何かをしっているからあんなに意見も魅力ももっているのだろうな」。

自分が高校生になると長いトンネルはクネクネ曲がり始め、なぜトンネルにいるのかと

さらに悩むことになりました。

自分の稚拙な行動で親にも随分心配をかけました。

当時、私は先生の、社会の差別にいたたまれずささやかな反抗をしていたのです。

規則、規制、裕福な援助金をする生徒への優遇。

美大を出て、社会人になり就職しましたが、イラストの仕事をしたくて新聞にイラストを5年、別冊紙の表紙画を1年描いていました。

記事も2年寄稿していました。

自分で新聞会社に売り込みにいったのです。

お声かけいただいたラジオの仕事1年、女性の講演のお仕事などいろいろお断りせず受けました。

仕事は自分からやってみたいと思うことに「トントン」とドアを叩きました。

したことのない業種ばかりです。当然ですがしたことがないからやってみたいのです。

レストランの企画の仕事をしたいとトントンした時はまずは床拭き、フロアサービス1ヶ月ただ働き。

パン工場では歯ブラシ1本でトイレ掃除から。

あげれば枚挙にいとまがありません。

悲鳴を上げる身体も無視して気力で頑張っていました。

何度も原因不明の病状になりながらも走り続けていました。

頭の片隅にトンネルを抜けていないことを知っていましたが、その時の興味、その時の感情で

動き通しでしたので真剣に立ち止まり向き合おうと思いませんでした。

「トンネルなんて実は気のせいだったのでは?ほら何も考えていない人たちの方が毎日愉快で楽しそうじゃない」と思うことも。

水溜まりを飛び越える程度かと思えば湖ほどの大きさだったり、

撒き割程度かと思えば巨木だったり、

私の前までいた人はそんな経験をする必要は無く、私の番になるといつもそういう場面になるのです。

40歳を間近にした私に母が言いました

「何故あなたが大地を耕やかし、種を撒き、水を与えて、やっと花が咲く頃、あなたはいつもそこにいないの?いつも他の人が悠々と花を眺めている。あなたにも花を見て欲しいと思うのよ、親だからね」。

娘が苦労して利益も名声も得れないことを気の毒に思っていたのでしょう。

私は母に答えました

「私は悠々と花を見たいから大地を耕すのではなく、ここに花を咲かせたらどんなに素敵でしょうということしか考えていないの。新雪を通る人もそうでしょ?向かう為に通っているのであって次の人が歩きやすいから新雪を歩くのではないでしょ」

あなたももう若くないのだから身体も大切にしないと、と言われて10年余り。

今も大地を耕すことは変わりません。何故ならそれが手本の習いが苦手な私らしいことだからです。

種を撒き水をやることも今もします。自分でしたいことだからです。

でも今は花を見たいと思うようになりました。小さくてもどんな花なのか見てみたいのです。

その花が誰かに語りかけ元気を与えることができたなら、こんなに嬉しいことはありません。

どうやら私は長い間トンネルの中で立ち止まっていたのではなく、真っ暗ながらもツルハシもって穴を掘っていたのでしょう。

できるかな、ではじめた私の人生が、できていることをトンネルを抜けた今、実感しています。